○日本史小話~part1~

久しぶりの投稿です。りょうです。

趣味が細胞培養?の変人です。

医療の話だけ聞くのもつまらないと思うので、ちょっと違う話をします。

1週間前に歴史能力検定の日本史2級を受けて、高校日本史全体を2日で一気に復習したので、

今日は日本史の小話をしたいと思います。

日本史の話といっても、みんな大好き戦国時代・明治維新ではなく、ここではあえて南北朝時代の話をしたいと思います。

ややセンシティブな話になるのですが、僕は特定の政治思想があるタイプではないので、それだけは誤解のないように。

「南北朝の合一」という出来事を、今までの日本史の授業で習ったと思います。

南朝の成立

鎌倉幕府倒幕後、足利尊氏が後醍醐天皇を討伐しようと挙兵し、最終的に京都を占領して光明天皇を即位させて政権を握ります。いわゆる北朝の誕生です。

一方で後醍醐天皇は京都を脱出して吉野に逃れて、こちらもこちらで政権を主張します。

南朝の滅亡

このように朝廷が南北朝に分裂し、それが60年も続いたのですが、1392年に足利義満が「南北朝の合一」を達成します。

これだけ聞くとめでたしめでたしと思いますが、実態はそうではなく「南朝の滅亡」こそ事実です。

つまり名目上南北朝は統一したのだけれども、皇位継承は主に北朝側の皇族でなされ、南朝側の皇族は徐々に衰退していきます。

これの何が問題かというと、現在の天皇が北朝の血統だからです。

要約

つまり南朝と北朝のどちらが正統でどちらが異端と解釈するかによって、現天皇の血筋の正統性が疑われることになるからです。

南北朝時代、当代随一の学者である北畠親房は著書『神皇正統記』において南朝の正統性を主張しました。

さらに、学界においても後醍醐天皇が正式に皇位を継承しなかったので、南朝の後醍醐天皇こそ正統であるという見方が強いです。

この問題を「南北朝正閏論」と呼びます。

近代における影響

実際、明治時代にこの問題は政界・学界・ジャーナリズムを巻き込んだ大論争にまで発展して、その後の国定教科書の記述にも影響を与えました。

その論争の末、明治天皇は南朝こそ正統であると裁断したため、戦前の義務教育において尊氏は「正統な」天皇に背いた極悪人であるという教育がなされたようです。

今、我々が教えられた「南北朝の合一」はこういった南北朝正閏論争を回避する折衷案なのでしょうね。

とりあえず今回はここまでとします。

part2に続きます。

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