○鎌倉時代の茶の湯と僧侶 part2

こんばんは。りょうです。

それでは前回の続きとしていきましょう。

 

鎌倉三代将軍である源実朝に茶を勧めた栄西

実朝は『金塊和歌集』 という歌集を出すほどの一流の歌人でしたが、本業の政治のほうは鳴かず飛ばずで、政治は既に執権である北条氏一族に掌握されていました。

武士からも評判が悪く、源氏最後の将軍になるかもしれないと苦悩していました。

そのため実朝は自暴自棄になって、酒に走ることが多かったようです。

栄西はそんな二日酔いアル中将軍に良薬と称して茶を勧めるとともに、茶の効用を記した文献を献上しました。

茶の原典『喫茶養生記』

その文献というのが『喫茶養生記』です。

その中で栄西は次のように説いています。

まず養生というのは肝・心・脾・肺・腎の五臓がバラ ンス良く保たれることで、各臓器はそれぞれ好む味がある。

肝臓は酸味を好み,心臓は苦味 を,脾臓は甘味を,肺臓は辛味を,腎臓は鹹味(塩辛い味)を好む。

しかし日本人は苦みを摂ることが少なく、それゆえ心臓が弱くなり早死にするきらいがある。

一方で中国人が長寿なのは、茶を飲んでいるからだと。

現代の西洋医学の観点からすると、トンデモ医学ですが、 当時は最新の医学だったんでしょうね。

『喫茶養生記』というと権威的な書物に感じますが、、、

現代でいう『留学帰りの医師が教える最新の『お茶』健康法』という健康に関する啓蒙本と捉えていただければ分かりやすいかと。

 

実朝が栄西を頼ったワケ

ちなみになぜ将軍実朝が栄西を頼ったかというと、栄西は僧侶であると同時に医師でもあ ったからです。

真っ当な医学を習得するには当然それにふさわしい高等教育を受ける必要があるのですが、鎌倉時代には高い教育を享受できるは僧侶か貴族しかいなかったのでしょう。

そのため、僧侶の中には栄西のように医師を兼ねる者もいました。

彼らは「僧医」と 呼ばれ、中世の医療界の主たる勢力でした。

 

流行り始めた茶の文化

また鎌倉・室町時代にかけて、武士の間で闘茶の会が盛んになります

闘茶は簡単にいえば、 茶の産地当てゲームです。

茶には、本茶と呼ばれる宇治茶と栂尾茶など質の良いお茶とそうでないお茶があるのですが、参加者はそのどちらであるかを飲み当てるわけです。

一番飲み当てた人に、賞品が贈呈されます。

今でいうビンゴ大会と同じで、社交の場で盛り上がるゲ ームでした。

まとめ

鎌倉時代の茶の湯史をまとめると、

  1. 日本に茶をもたらしたのは臨済宗の栄西
  2. 茶は健康食品!
  3. 仏教の普及に伴って茶も普及した
  4. 茶の産地当てゲームが催され、軽いノリで茶をたしなむことができた

ということですね。

ではこの記事は以上となります。

written by りょう

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